中国語を勉強していて、やはり違和感がある。
通常の学習はまるでやる気が出ず。
かといって勉強を辞めるわけでもない。
どうにも人と少しずれた部分に興味があるようだ。
語学はコミュニケーションのためにある。
そう言って差し支えないだろう。
しかしだ。
俺は目の前に中国人が居ても、別に喋りたいと思わない。
中国人と喋りたいから中国語を勉強するのではなく。
中国語を勉強したいから中国人と喋りたいのだ。
要するに、俺の目的はコミュニケーションではない。
中国語という分野に対する興味であって。
コミュニケーションはそのための手段に過ぎないのだ。
俺のモチベーションの源泉はコミュニケーションではない。
最近、それに気付いた。
例えば、ピンインや単語を勉強するとき。
よく使うものではなく、全種類網羅されていることを重視する。
例えば、使いもしない教科書を何冊も持っている。
文法も、実用的であるかどうかよりも、体系立てて整理されていることを良しとする。
だから、教科書で繋がりの無い項目がバラバラに出てきて、明確な終点が無いことに対して非常にストレスを感じる。
それよりも、全部を網羅している辞書のほうが美しいと感じる。
人と話すことは目的ではないので、実用的であることに大して価値を感じない。
外国語にアレルギーのある人は多い。
もしその理由が、俺と同じ所にあるとしたら。
俺が今やっている試みが最後まで開通したとき、新しい世界が切り開かれるのではないか。
そんなことを、けっこう真面目に考えている。
0 件のコメント:
コメントを投稿