2008年12月21日

個人プレーは要らないと言う。

1人がどんなに努力しても集団には勝てないから。

 

「フラットな世界=個の世界」この式は成り立たない。

 

集団を統率するカリスマ。

「多」を導く力が全てとなる。

そしてそれが「個」に求められる。

 

多から求められる重圧。

重圧を快感と思える感情。

多の感情すらもコントロールできる論理。

 

豊臣、織田、徳川。

多を統べる個。

 

戦国時代と何も変わらない。

ならばフラットとは?

 

判らない。

あえて言えば「可能性」だろうか。

「夢」とも言う。

 

夢があるから頑張れる。

同時にそれは。

 

「諦められない世界」

成功するまで永遠に努力して苦しみ続けなければならない世界。

そしてそれが暗黙のうちに強要される世界。

 

「どうせ俺なんて」と諦めるのは世界にとって悪かもしれない。

けれどそれができることが「楽チン」なのだ。

 

人が楽な方へ流されるとしたら。

フラットで何にも縋れない無限に広がる荒野よりも。

糸に縛られた不自由な操り人形を選ぶかもしれない。

 

「人形と人形使い」

それがフラット?

どちらか選べるという意味ではフラットなのか?

 

フラットな世界は革命だったかもしれない。

けれど今はまだ、世界は救われていない。

 

世界は変わる。

個の頭の中では追いつけない速度で。

 

そんなことを言うと「思考停止」だと怒るのだろう?

その理解をまた強要するのだろう?この世界は。

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