個人プレーは要らないと言う。
1人がどんなに努力しても集団には勝てないから。
「フラットな世界=個の世界」この式は成り立たない。
集団を統率するカリスマ。
「多」を導く力が全てとなる。
そしてそれが「個」に求められる。
多から求められる重圧。
重圧を快感と思える感情。
多の感情すらもコントロールできる論理。
豊臣、織田、徳川。
多を統べる個。
戦国時代と何も変わらない。
ならばフラットとは?
判らない。
あえて言えば「可能性」だろうか。
「夢」とも言う。
夢があるから頑張れる。
同時にそれは。
「諦められない世界」
成功するまで永遠に努力して苦しみ続けなければならない世界。
そしてそれが暗黙のうちに強要される世界。
「どうせ俺なんて」と諦めるのは世界にとって悪かもしれない。
けれどそれができることが「楽チン」なのだ。
人が楽な方へ流されるとしたら。
フラットで何にも縋れない無限に広がる荒野よりも。
糸に縛られた不自由な操り人形を選ぶかもしれない。
「人形と人形使い」
それがフラット?
どちらか選べるという意味ではフラットなのか?
フラットな世界は革命だったかもしれない。
けれど今はまだ、世界は救われていない。
世界は変わる。
個の頭の中では追いつけない速度で。
そんなことを言うと「思考停止」だと怒るのだろう?
その理解をまた強要するのだろう?この世界は。
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