2012年10月27日

モノづくり幸福論(前編)

縄文時代や江戸時代は、今より不便だったはずだ。
食べ物を手に入れなければならず、輸送や保管の技術も無く、それらに生活のほとんどを費やさなければならなかっただろう。

けれど、縄文時代や江戸時代が不幸かというと、そうではない。
縄文時代でも江戸時代でも現代でも、幸福を感じる人の比率は同じではないか?

モノが溢れ技術が高まって便利になっても、それは幸福とは違う。

ならば、モノづくりは幸福に寄与しない。貢献できないのではないか。

 

パソコンを買う人は、ネットやメールやチャットがしたいのであって、箱が欲しいわけではない。
毎日友人とSNSで繋がってゲームやチャットができる、だからドライブに行く車は要らない。
断捨離、所有しない、捨てる技術。
まるで、モノが溢れるのが悪いことであるかのようだ。

 

モノは幸福ではなく、モノが要らなくなった世界で。
モノづくりは、何を生産すればいいのか。

 

毎日毎日、満員電車で会社へ行き、品質と効率を高めコストを削っている。
誰かの望み、求めるものを満たすからこそ賃金を貰っているはずだ。

結果、作られたモノが1円でも安くと買い叩かれ、どれでも一緒と言われ。
そのうえ、モノは無いほうが良い。となってしまっては、何をしているのかサッパリ判らない。

 

技術者が苦労して、高い技術で良いものを安く作っている。
そのモノから感じる幸福は、あまり無い。
苦労より幸福が小さいならば、トータルはマイナスであり、クリエイト(創造)とは正反対。

だとしたら、家で寝ているほうが良いのではないか?
ニートが増えるのも不思議ではない。

 

では、どうしたらいいのか。
次回へ続く。

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