1回目。
子供のころ、女の子に嫌われたことがある。
それがきっかけで、色々なことに気付いた。
2回目。
社会人になって、責任とかそういうのをたくさん知った。
それで気付いたことがたくさんある。
今年は3回目だった。
昔、「正しい答え」を探していた。
親、兄弟、教師、友達。その人達が全員違うことを言ったらどうするのか。
昔の俺は自分を信じられず、誰かに従うことしか知らなかった。
従うことが前提で、誰に従うのかを考えていた。
自分を天国に連れていってくれる、絶対的な神様。それが「正しい答え」。それを探していた。
恥ずかしい話だが、私は親を神だと思っていた。
それは違うと気付いたのは、成人した後だった。
誰に依存すればいいのか、何に縋ればいいのか。
今は21世紀で、周りにビルが立っている。
だが、頼るものなどどこにもなかった。
ここは荒野の真ん中か荒海の真ん中。縄文時代と変わらない。
頼れるものは、自分しかいない。
頭で考え、口を開き、足で立ち、手を動かす、全部自分でやるしかない。
それに気付いたはずだ。
でもそうじゃなかった。
仕事をしていて、私は自分の頭で考えていない。
自分で考えるよりも、人に従うほうが良い結果が出ると思っている。
新入社員ならそれでいいと思う。いいや、そうでなければならないと思っている。
趣味ならば丸一日グーグル先生と格闘していてもいい。
だが、仕事では人に聞くべきだ。
自分の考えが既存のシステムより優れているなど、思い上がりだ。
下手の考え休むに似たり。
思考など無意味。命令こそ絶対。
そちらのほうが正しいと思っている。
命令こそが正しい。イエスマンでなければならない。
その考え方は変わらない。
だが、それは長く続かない。
私はイエスマンを続けているうちに気付いた。
いつか、命令する側にならなければならない。
もし私がずっとイエスマンだったら、その考え方が変わらなかったら。
私は独裁者にならなければならない。
イエスマンと独裁者、命令に従う側と命令して責任を取る側。
その中で、足りないものがある。
独裁者になるために、俺はどうやって責任を負うのか。
誰に頼るわけでもなく誰に縋るでもなく、今度こそ本当に。
自分の頭で考える。
それをしていない。
望む世界に行くためには、それなりの実績と理由を集めないといけない。
行ったら行ったで、それなりの結果を出さないといけない。
そうでなければならない。
それを背負うことが覚悟なのだ。
結局、それから逃げているだけだ。
私は、背負っていなかった。
イエスマンに無くて、独裁者に有るもの。
責任や覚悟だ。
命令する側になるには、それが要る。
私はもう新入社員ではない。
壁、ハードル。
責任や覚悟が無ければ、ここで行き止まりだ。
越えなければならない。
望む世界はこの壁の向こう側にある。
ついに俺は、望む世界の外壁に触れたのだ。
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