2014年12月30日

イエスマンと独裁者

1回目。
子供のころ、女の子に嫌われたことがある。
それがきっかけで、色々なことに気付いた。

2回目。
社会人になって、責任とかそういうのをたくさん知った。
それで気付いたことがたくさんある。

今年は3回目だった。

 

昔、「正しい答え」を探していた。
親、兄弟、教師、友達。その人達が全員違うことを言ったらどうするのか。
昔の俺は自分を信じられず、誰かに従うことしか知らなかった。
従うことが前提で、誰に従うのかを考えていた。
自分を天国に連れていってくれる、絶対的な神様。それが「正しい答え」。それを探していた。

 

恥ずかしい話だが、私は親を神だと思っていた。
それは違うと気付いたのは、成人した後だった。
誰に依存すればいいのか、何に縋ればいいのか。
今は21世紀で、周りにビルが立っている。
だが、頼るものなどどこにもなかった。
ここは荒野の真ん中か荒海の真ん中。縄文時代と変わらない。
頼れるものは、自分しかいない。
頭で考え、口を開き、足で立ち、手を動かす、全部自分でやるしかない。
それに気付いたはずだ。

 

でもそうじゃなかった。
仕事をしていて、私は自分の頭で考えていない。
自分で考えるよりも、人に従うほうが良い結果が出ると思っている。
新入社員ならそれでいいと思う。いいや、そうでなければならないと思っている。
趣味ならば丸一日グーグル先生と格闘していてもいい。
だが、仕事では人に聞くべきだ。
自分の考えが既存のシステムより優れているなど、思い上がりだ。
下手の考え休むに似たり。
思考など無意味。命令こそ絶対。
そちらのほうが正しいと思っている。

 

命令こそが正しい。イエスマンでなければならない。
その考え方は変わらない。
だが、それは長く続かない。
私はイエスマンを続けているうちに気付いた。
いつか、命令する側にならなければならない。
もし私がずっとイエスマンだったら、その考え方が変わらなかったら。
私は独裁者にならなければならない。
イエスマンと独裁者、命令に従う側と命令して責任を取る側。
その中で、足りないものがある。

 

独裁者になるために、俺はどうやって責任を負うのか。
誰に頼るわけでもなく誰に縋るでもなく、今度こそ本当に。
自分の頭で考える。
それをしていない。
望む世界に行くためには、それなりの実績と理由を集めないといけない。
行ったら行ったで、それなりの結果を出さないといけない。
そうでなければならない。
それを背負うことが覚悟なのだ。
結局、それから逃げているだけだ。

 

私は、背負っていなかった。
イエスマンに無くて、独裁者に有るもの。
責任や覚悟だ。
命令する側になるには、それが要る。
私はもう新入社員ではない。
壁、ハードル。
責任や覚悟が無ければ、ここで行き止まりだ。
越えなければならない。

 

望む世界はこの壁の向こう側にある。
ついに俺は、望む世界の外壁に触れたのだ。

0 件のコメント: