例えば、世界には何も無いと仮定する。
天地とか海とか生き物の全てが無い、真空の宇宙空間だと仮定する。
そこで、デジタルとアナログのどちらが役立つだろうか。
民主主義と社会主義どちらが役立つだろうか。
大人と子供とどちらが役立つだろうか。
どうでもいい話だ。
価値とか幸福とかの前に、そこに居ることができない。
では、日常生活では何故そのようなものを選択しなければならないのだろうか。
学生と社会人、アマチュアとプロ、趣味と仕事。
そんなものは無いと仮定したらどうだろうか。
価値とは、選択するものではない。
何も無いところから提案するものだ。
子供が集まったら、ゲーム機が無くても遊べるだろう。
ルールの決まったスポーツが無くても、サッカーの人数が足りなくても、楽しむことはできる。
設備や文化が無くても、人が集まれば祭りをすることができる。
そもそも、世界には何も無かったのだ。
無から有を生む。
それは奪い合うものではない。
国や社会や、会社や学校や家庭、それには価値があるのではないか?
そういって、提案をしている。
そもそもがゼロなのだから、否定することは簡単だ。
だがそれはゼロに戻すだけであり、何もしていない。
だからそんなものに付き合う意味は無い。
何も無い世界で、価値を提案する。
それこそ人の在り方だと思わないだろうか。
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