2022年9月3日

儀礼的無関心

好きの反対は、嫌いではなく無関心。
(マザー・テレサ)
 
好きの反対は、嫌い。
悪意をもって人と関わることが、関わらないより正しいなんてありえない。
(呪術廻戦)
 
凄い凄いと持ち上げておいて、後から貶めるのはマスメディアの常套手段。
マスメディアの目的は報道ではなく広告収入を得ることなので。
センセーショナルに煽って視聴者が釣れればいいのだ。
だから、最も恐れることは「無関心」だ。
 
センセーショナルは、価値観(感情や感覚)に触れることを指す。
そうすると興味を持って視聴率が上がる。
しかし、そういった釣りサムネの中身がろくでもないことは大勢が知っている。
傷付いただの問題だのと騒ぐのなら、それこそマスメディアの術中である。
 
無関心は、現代に必要なスキルだと思う。
いちいち情報に反応して感情を動かされていたのでは体力がもたない。
ましてや、ろくでもない話で不快な気分になるのなら、無関心のほうが良い。
 
表現の自由や多様性が叫ばれているが、それを実現する方法がある。
自分の目と耳を閉じて無関心でいることだ。
そうすれば、いかなる表現の自由も多様性も認めることができる。
自分の手足と口が自由なように、目と耳も自由である。
 
「儀礼的無関心」という言葉がある。
関心と無関心の中間にあり、意図的に無関心をよそおう。
知らない人をジロジロ見ていたら不審者として警察に通報されるだろう。
そうならないように、無関心ですよアピールをするわけだ。
ここでの無関心は礼儀であり、良い面があることを示している。
 
無関心は悪いことのように聞こえる。
だが、良いこともある。
テレビや新聞が煩わしい、多様性を認められない。
そんな人は、目と耳を塞ぐことをオススメする。
 
儀礼的無関心。
無関心とは礼儀でもある。

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