21世紀は縄文時代よりも便利になった。
けれど、どちらが幸福かと言われてみると判らない。
テクノロジーが進歩して便利になっても幸福にはなれなかった。
では、テクノロジーを進歩させる意味はあるのか。
モノづくりは何を作ればいいのか、それは幸福へと続いていないのだろうか。
幸福になりたいかと問われると、なりたいと答える。
けれども、幸福が何かと問われると答えられない。
医者になるために医者の勉強が要るように、幸福になるためには幸福の勉強が要る。
それが何なのか理解せず手に入れることはできない。
昨年私は、モノづくりの本質が「モノ」ではなく「作り」であることに気付いた。
調べるほどに、一時的な思いつきや気分的なものではなく、本当にそうなのだという確信に変わった。
モノとは器であり、そこに込められた魂が価値。
モノづくりをしていると、余計な杞憂を忘れて無心になる。
暑さ寒さを感じない、三度の飯やトイレさえも忘れて集中する。
魂を込めるというにふさわしい、その行為自体が幸福だろうか。
その結果、出来上がる物体がどんなに稚拙であろうと問題ではないのだ。
モノづくりの先に幸福があるのか。いや、それは違うかもしれない。
モノづくりと幸福は似たようなもの。
モノづくりを「モノ」だと思ってたように、幸福そのものを見失っているのだ。
子供が友達と遊ぶとき、強い人にはハンデを付ける。
圧倒的な力の差で結果が判るゲームはしない。
そんなものは面白くないからだ。
野球やサッカーの試合を、勝敗だけ聞いても面白くない。
価値は結果ではなく過程にあるのだ。
私達は飢えない。
電気水道ガスが当たり前のようにあるし、爆弾が飛んでくることも無い。
これが幸福と言わずして何なのだ。
なぜそれを幸福と感じられないのか。
万人が何千年も求め続けているのに、なぜ幸福に到達することができず、定義されることすら無いのか。
まるで幸福が存在しないかのようだ。
そう、幸福には永久に到達しない。
幸福に到達してしまったら、そこは終焉。
世界の終わりではないだろうか。
幸福は、野球の勝敗や、モノづくりの物体と同じ。
結果だけ得ても意味が無く、そこに至る道程こそ本質なのだ。
すなわち、幸福に到達することは永久に無い。
追い続ける、求め続けるその過程こそが幸福なのだ。
芸術家が完璧なものを作れない、満足しないのと同じ。
モノづくりの本質は作り、満ちることの無い器を満たそうとする行為こそが本質。
モノづくりが幸福に続いているのではなかった。
モノづくりと幸福は似たようなものだ。
価値は過程にこそ存在した。
幸福とは何か?価値とは?豊かさとは?
完全なる正解があるとは思わない。
それでも、これは一つの回答に違いない。
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