2013年4月23日

幸福とは何か

21世紀は縄文時代よりも便利になった。
けれど、どちらが幸福かと言われてみると判らない。
テクノロジーが進歩して便利になっても幸福にはなれなかった。

では、テクノロジーを進歩させる意味はあるのか。
モノづくりは何を作ればいいのか、それは幸福へと続いていないのだろうか。

幸福になりたいかと問われると、なりたいと答える。
けれども、幸福が何かと問われると答えられない。
医者になるために医者の勉強が要るように、幸福になるためには幸福の勉強が要る。
それが何なのか理解せず手に入れることはできない。

昨年私は、モノづくりの本質が「モノ」ではなく「作り」であることに気付いた。
調べるほどに、一時的な思いつきや気分的なものではなく、本当にそうなのだという確信に変わった。

モノとは器であり、そこに込められた魂が価値。
モノづくりをしていると、余計な杞憂を忘れて無心になる。
暑さ寒さを感じない、三度の飯やトイレさえも忘れて集中する。
魂を込めるというにふさわしい、その行為自体が幸福だろうか。
その結果、出来上がる物体がどんなに稚拙であろうと問題ではないのだ。

モノづくりの先に幸福があるのか。いや、それは違うかもしれない。
モノづくりと幸福は似たようなもの。
モノづくりを「モノ」だと思ってたように、幸福そのものを見失っているのだ。

子供が友達と遊ぶとき、強い人にはハンデを付ける。
圧倒的な力の差で結果が判るゲームはしない。
そんなものは面白くないからだ。
野球やサッカーの試合を、勝敗だけ聞いても面白くない。
価値は結果ではなく過程にあるのだ。

私達は飢えない。
電気水道ガスが当たり前のようにあるし、爆弾が飛んでくることも無い。
これが幸福と言わずして何なのだ。
なぜそれを幸福と感じられないのか。

万人が何千年も求め続けているのに、なぜ幸福に到達することができず、定義されることすら無いのか。
まるで幸福が存在しないかのようだ。

そう、幸福には永久に到達しない。
幸福に到達してしまったら、そこは終焉。
世界の終わりではないだろうか。

幸福は、野球の勝敗や、モノづくりの物体と同じ。
結果だけ得ても意味が無く、そこに至る道程こそ本質なのだ。

すなわち、幸福に到達することは永久に無い。
追い続ける、求め続けるその過程こそが幸福なのだ。

芸術家が完璧なものを作れない、満足しないのと同じ。
モノづくりの本質は作り、満ちることの無い器を満たそうとする行為こそが本質。

モノづくりが幸福に続いているのではなかった。
モノづくりと幸福は似たようなものだ。

価値は過程にこそ存在した。

幸福とは何か?価値とは?豊かさとは?
完全なる正解があるとは思わない。
それでも、これは一つの回答に違いない。

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