2013年11月16日

理解はありえるのか

また訳の分からない話を思いついたので書いてみようと思う。

 

部活の後輩でも、会社の部下でも、自分の子供でもいい。
我々は、遅かれ早かれ、自分が手本となり教える立場になる。

そこで、相手に理解させる。ように試みる。
だが、それは可能なのだろうか。
可能だとして、それをどうやって測るのだろうか。

 

例えば、学校の授業の成果はテストで測られる。
だからテスト勉強や受験勉強があるのが、テストで点を取ることが目的になってしまい、極論、点さえ取れれば理解する必要は無い。
それに加えて、真面目に取り組んでいる(ように見える)必要があり、そうでなければ注意を受ける。

会社でも、評価の基準がある。
学校に比べて過程はあまり重要視されず、測られるのは主に結果である。
真面目に取り組んでいる(ように見える)必要はなく、周囲に疎まれて良いとまでは言われないが、極論、数字さえ出せれば理解する必要は無い。

学校でも社会でも、評価基準は正しく定められるべきだし。
テストのためだけの勉強や、人間関係を破壞してまでの業績が評価されてはならない。

だが。
理解するための勉強、会社にとっての最良の結果。
それがどんなもので、結果を測る方法はあるのだろうか。

 

私は「良い子」だった。

成績はさほど良くなかったけれど、姿勢や生活面で注意されることは無かったし、そのように心がけていた。
だが、その実、従う以外何もしない人間だった。

私は、従うだけの歯車、操り人形、使い捨ての駒。
それが良いことだと思っている。

私の中の人間関係は、「主人と従者」と「赤の他人」二種類しかなく。
交渉、相談、話して判る、理解し合うなどというものは、あり得ない事象だ。

 

話して判る、理解し合うことが可能だとしたら。
政治や宗教で対立し、何百年も殺し合いをするわけが無いじゃないか。
理解することなど不可能であり、殺し合いが嫌ならば別の世界に住めばいい。

争いを好まず、優しくありたい。誰からも疎まれず、穏便に結果だけを出す。
思えば思うほどに。

私は独裁者だ。
何もかも私の言いなりになる従者しか認めず、それ以外は消えろと言っている。

 

両親、教師、友達、恋人、会社の上司、部下。
私は、生まれてから今まで、理解しようと試みたことが無い。

命令をすればいいのだ。
命令に従えばいいのだ。
結果が悪ければ、命令したものが責任を取ればいいのだ。
それ以外何もない。
理解など存在しない。

理解しようと試みたところで、結果の数字には反映されない。
ならば時間のムダだ。
理解など無意味である。

やりたいのなら、趣味でやればよい。
テストの結果も、会社の業績も関係ない。
今日の夕飯と同列の趣味だ。

 

 

理解が必要だと知っている。
だが、それを理解することができない。

誰か、これを覆していただけないだろうか。

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