2014年2月8日

価値ある商品

私はモノづくりの人間ではなくなってしまった。
けれどそれは、モノという器を使わなくなった。というだけであり。
価値という観点では、パソコンのデータでも、接客でも、同じである。
むしろ、モノという器に縛られなくなったという意味で、違う世界を見ていることでもある。

さて、さっそくモノの話で申し訳ないが。
あっちもこっちも、3Dプリンタだらけである。
安いとか、高精度とか、食べられるとか、臓器を作れるとか。
どれも素晴らしいものだと思う。
けれど、イコール価値が高いとは思っていない。

あなたが仕事をしていて。
速さで競うか、質で競うか、価格で競うか。
何で競って、勝って、金を貰いたいだろうか。
競うというのは苦労する。
勝つということは、他は負けるということ。
金さえ貰えばいいわけでもない。

 

ならば問う。
あなたの目的は何か。

 

抽象的な言い方をすれば、幸福。
幸福=価値。それこそ目的。
品質、価格、物量、効率、速度は全て手段に過ぎない。
子供のころ、右から左へ物件を売買するようなのは何も生産せず、価値の無いものだと思っていた。
けれど、それを言ったら農業だって肥料を混ぜたり動かす。
それは物体しか見ていない。価値を見ていない人の言うことだ。
製造業でも、接客でも、運送でも、不動産でも、農業でも。
見るべきは価値=幸福であり、その最大化こそ評価されるべき、金を払われるべき、するべき努力だ。

私はモノづくりの人間ではなくなってしまった。
だからこそ、モノという器の存在が当たり前ではないと知ったし。
物体を使う商品と、物体を使わない商品の共通点を突き詰めれば。
価値を知ることができるかもしれない。
それこそ、モノという器に込めるべき価値、幸福、魂であるはずだ。

ビジネスが厳しい世界であることは知っている。
だが、海外の工場で安くとか、使い捨てのアルバイトとか。
それは本当に、価値ある商品を作っているのだろうか。
労働者こそ、お客様そのものであるはず。
作り手と買い手、双方の幸福のトータルを見て最大化しなければならない。
一人で勝てばいいなどとは、視野の狭い部分最適に過ぎない。

企業も、労働者も、客として商品を買うときも。
価値=幸福に繋がるのかどうか、ちゃんと考えるべきだ。
知る、見る、考える、理解しろ。
願い、叫び、手を動かし、足を運べ。
そうしなければ、望む世界は手に入らない。

私は、会社や社会に対して不満があるわけではない。
ただ、この世界がどこへ向かうのか、道を示し叫びたい。
私自身が、そのような存在で在りたい。

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