もっと書きたいことがあるのだけれど。
あえて、どうでもいいことを書く。
学生の頃、何がやりたいか?と問われた。
私はモノづくりがやりたかった。
保育園でノコギリを使っていて褒められたから。
小学生でビースのブレスレットを見て、綺麗だと思ったから。
最初は些細なことだが、三つ子の魂百まで。とは本当で。
20年以上経って、先週はノコギリを使ったし、今週はビースをいじっている。
学校の授業で、美術と技術、家庭科と音楽が好きだった。
(もちろん、お受験には全く役立たないので推薦で進学した。)
「自信を持て」とよく言われるのだけれど、その頃から自信が無かった。
好きなことだけじゃダメ。自分のやることを全部否定した。
人に認められたかったわけでもなく、むしろ理解されることを拒んだ。
誰にも理解されないことをしたかった。
理解されるなら、それはその人がやればいい。
俺は違うことをする。
モノづくり。の中で、右往左往しているうちに色々なモノづくりに出会った。
建築、機械、電気、化学、情報。
設計、デザイン、製造。
モノづくりがしたい。その意思だけではモノづくりはあまりにも広く。
一つを選んだとしても、一生かかるほどに深いと知った。
数年前にメイカーズとかいう得体の知れない何かが流行って。
乗ったんだか乗せられたんだか判らない状況になった。
そのせいか、歳のせいか、環境のせいか判らないけれど。
私は、モノづくりの価値がどこにあるのかを考えるようになった。
モノづくりは物ではなく、作りである。
少し前に終わってしまったが「つくってあそぼ」というテレビ番組がある。
DIYは、ドゥーイットユアセルフ(自分でやれ)という。
誰も「物」とは言っていない、モノづくりは「作り」である。
今ではもう、疑いではなく確信になっている。
物理的な物に価値が無いというわけではなく、モノづくりがモノづくりである器として物があると思っている。
では、その器に込める作り、価値とはいったい何なのか。
抽象的な意味で、価値とは幸福や豊かさである。
では、幸福や豊かさとはいったい何なのか。
縄文時代と21世紀で幸福が変わらないと思うのならば、その間に進歩したテクノロジーは全て幸福に貢献しなかったことになる。
そして、今あくせく働いているこの行いも、幸福には繋がらないということではないのか。
私は、どうしたらモノづくりが幸福に貢献できるのかを考えた。
幸福を生み出し、そこにお金が払われる世界になるべきだと思った。
読んだか聞いたかした話で、スティーブ・ジョブズはiPhoneという物体を売っているのではなく、そこから得られる経験を売っているのだという。
未だにあまり理解できないのだが、たぶん、モノづくりが物ではなく作りだというのと、近いのではないかと思っている。
物ではなく作り、その行いを価値として売る。
具体化すると、例えば彫金教室や音楽教室、ワークショップのようなもの。
そこに価値があるのだと思うようになった。
ジョブズがフォックスコンに投げているのかどうかは知らないが。
海外の工場で安く作る。なんてのは、価値を放り投げているようなものだと思う。
さて、言うは易し行うは難し。
というか、まだ言うにも及んでいない。
原因が判れば問題の半分は解決しているというが、まだ半分に到達しない。
例えば、デザインや設計に価値があるのだろうか。
それとも、製造現場に価値があるのだろうか。
私は両方やってみたが、たぶん、どちらが上とかではない。
ここはまだ答えが出ていない。それでも、携帯電話がどんどん海外メーカーになっていき、国内メーカーは合併やら撤退やらで寂しい限りだ。
どうしてそうなった。というか、自動車との違いはいったい何なのかとマクロに膨らませすぎたりして、やっぱり辞める。
とにかく、リーマンなんちゃらがあったけれど、自動車はずいぶん盛り返しているようだ。
つーか、自動車以外って何があるの?っていう感じに写ってしまうくらいだ。
だからこそ、私は、私の能力ではなく、会社とか業界とか政府に助けられて、ラッキーのうちに給料を貰って生きている。
価値とか幸福を生み出せているかどうかと言われると、ダメダメだ。
会社の看板を失くして生きていくことは出来ない。
私が何をしているのか、何をすべきなのか、まだ見えないのだ。
システムが価値だと思った。カリスマが価値だと思った。
私はあまり頭が良くないので、思考が価値だとは思わない。
では、システムに従う奴隷ならいいのか。
そこの否定も現状の課題なのだが、やはり目指すべきは自由であろう。
ただし、自由とは不安とセットであり、自由な世界とは不安を背負えない人間を排除した世界ではないのかとの疑いもある。
例えば、会社に行かなくてもいい自由を得たとして、その代償は会社の看板無くして食うだけの金を稼がなければならない不安である。
だから、価値が何であるか、幸福が何であるかを理解したいのだ。
そうでなければ、会社にいても、いなくても、飢えて死ぬことに無防備であり、自由ではない社会の奴隷である。
そんなのは詰まらない。そうあるべきではない。
それを覆すためにどうしたらいいのか、モノづくりはその手段として使えるのか?
ミニストップのライバルはファミリーマートではない。
コンビニ弁当のライバルは、牛丼屋やファミレス。
ビックカメラは、休日に家族で過ごす場所。ディズニーランドのような場所。
業界の中でパイを取り合うべきではない。
ジュエリーのライバルは、ティファニーカルティエではなく、映画館のデートかもしれない。
モノづくりは物ではなく作りだと言ったが、「経験」に焦点を当てた場合、使う、壊す、直す、捨てる、といった経験も当てはまる。
だからもう、本当に物という器に固執している場合ではないのだ。
絞ったつもりが、価値とは何なのか余計に判らなくなっている。
つい最近だ。
何をやりたいか?と問われた。
今、私は形と材料だけに絞り、モノづくりをやっている。
そして、モノづくりという行いそのものを作ろうとしている。
物が要らなくなった世界で価値を生み出すこと。
それはモノづくりなのか?
いつの間にか、モノづくりから外れてしまっていないか?
いいや、モノづくりに限定する必要はあるのか?
方針は変えない。
だが、問いに答えられないのならば軸がブレている。
意思が弱く、曖昧である。
何がやりたいか。また考えなおさなければならない。
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