モノづくりのモノは器、その内側に見るべき価値が入っている。
最近、私はモノづくりから離れている。
モノづくりの世界の人間ではなくなった。
だからこそ、モノづくりとモノづくり以外の共通点を探し。
物体に縛られない、真に見るべき価値を探している。
「モノづくりに興味が無い」
耳を疑うほどに衝撃的な言葉だった。
自分で作れないし、作り方を知ろうとしない。
それなのに、値段が高すぎるとか、品質が悪いとか言っている。
作る人間に敬意を払わない。
正しいかどうかは判らない。
常識や事実だかも判らない。
だけれども、そうか。
世界は、少なくとも私の身の回りでは「モノづくりに興味が無い」のが普通なのだ。
モノづくりモノづくり言っている私のほうが少数派だったのだ。
縄文時代は、みんながモノづくりをした。
家を建てて、獣を狩って、服を縫って、土器を作った。
その能力を全て失って、ローンを返すために電車に詰め込まれることが進化だったのか?
それで私達は幸福が増えていると思うのだろうか。
それを。
それ自体を、考えもしない。
モノづくりそのものが存在しない世界だ。
私は、本当にモノづくりの外側の世界に来てしまった。
これは虚構なのか、それとも今までが虚構だったのか、それは判らないけれど。
今まで常識だと思っていたものは、常識ではなかったのだ。
小さな井戸の中しか見ていなかったのだ。
壊れない機械よりも、壊れても直せる機械がイイ。
そう思っていた。
だが、あろうことか私は、パンクしない自転車が欲しいと思ったのだ。
パンク修理キットではなく、パンクしないタイヤに金を出そうとしたのだ。
それはまさに、作るという行いを放棄して、物体に金を払うということ。
そうか、これか。
少し前にWindowsXPのサポートが終わった。
OSが高すぎる。という声も聞かれた。
だが、その人達はLinuxには移らない。
以前、Ubuntuを少しだけ使ってみたが、正直、何万も払ってWindowsを使い続けたほうがずっと安いし早いし楽なのだ。
作るという行いには価値があるだろう。
困難だが過程を楽しめる。
モノづくりは、自由な世界に通じているはずだ。
だが、自由には代償がある。
大勢の人は、その代償に耐えるほど強くはない。
私にとって、モノづくりは大きな存在だった。
だけれども、それは世界のごく一部に過ぎなかったのだ。
例えば、私はスポーツに興味が無い。
野球もサッカーも見ないし、オリンピックがいつどこでやったのかも知らない。
たぶん、「モノづくりに興味が無い」人にとってのモノづくりは。
それと同じことなのだろう。
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