2014年6月8日

モノづくりの無い世界

モノづくりのモノは器、その内側に見るべき価値が入っている。

最近、私はモノづくりから離れている。
モノづくりの世界の人間ではなくなった。

だからこそ、モノづくりとモノづくり以外の共通点を探し。
物体に縛られない、真に見るべき価値を探している。

 

「モノづくりに興味が無い」
耳を疑うほどに衝撃的な言葉だった。

自分で作れないし、作り方を知ろうとしない。
それなのに、値段が高すぎるとか、品質が悪いとか言っている。
作る人間に敬意を払わない。

正しいかどうかは判らない。
常識や事実だかも判らない。
だけれども、そうか。
世界は、少なくとも私の身の回りでは「モノづくりに興味が無い」のが普通なのだ。
モノづくりモノづくり言っている私のほうが少数派だったのだ。

 

縄文時代は、みんながモノづくりをした。
家を建てて、獣を狩って、服を縫って、土器を作った。
その能力を全て失って、ローンを返すために電車に詰め込まれることが進化だったのか?
それで私達は幸福が増えていると思うのだろうか。

それを。
それ自体を、考えもしない。
モノづくりそのものが存在しない世界だ。

私は、本当にモノづくりの外側の世界に来てしまった。
これは虚構なのか、それとも今までが虚構だったのか、それは判らないけれど。
今まで常識だと思っていたものは、常識ではなかったのだ。
小さな井戸の中しか見ていなかったのだ。

 

壊れない機械よりも、壊れても直せる機械がイイ。
そう思っていた。
だが、あろうことか私は、パンクしない自転車が欲しいと思ったのだ。
パンク修理キットではなく、パンクしないタイヤに金を出そうとしたのだ。
それはまさに、作るという行いを放棄して、物体に金を払うということ。
そうか、これか。

少し前にWindowsXPのサポートが終わった。
OSが高すぎる。という声も聞かれた。
だが、その人達はLinuxには移らない。
以前、Ubuntuを少しだけ使ってみたが、正直、何万も払ってWindowsを使い続けたほうがずっと安いし早いし楽なのだ。

作るという行いには価値があるだろう。
困難だが過程を楽しめる。
モノづくりは、自由な世界に通じているはずだ。
だが、自由には代償がある。
大勢の人は、その代償に耐えるほど強くはない。

 

私にとって、モノづくりは大きな存在だった。
だけれども、それは世界のごく一部に過ぎなかったのだ。
例えば、私はスポーツに興味が無い。
野球もサッカーも見ないし、オリンピックがいつどこでやったのかも知らない。
たぶん、「モノづくりに興味が無い」人にとってのモノづくりは。
それと同じことなのだろう。

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