2014年7月30日

ありきたりな日常

縄文時代と21世紀、どちらが幸福か。
恐らく同じだ。
幸福だと思う人は幸福と思い、思わない人はグチをこぼす。
いつの世も同じなのだろう。
ならば文明は何のために発展してきたのか。
技術の進歩は何のためだったのか。
それは幸福に通じていないというのか。
それが私の最初の疑問だった。

エアコン、炊飯器、洗濯機、掃除機。
昔は、物が増えれば幸福になったのかもしれないが。
今は違う。
断捨離、捨てる技術、物なんか無いほうがいい。
生まれた時から不景気で、節約とかエコばかり叫ばれて。
いつの間にか欲しいものが無くなり。
要らない物で散らかった部屋にうんざりしている。

物が要らない世界で、モノづくりは何を作ればいいのか。
高品質低価格を突き詰めて、作り手がヒーヒー言っているのに。
その結果、幸福は増えず、ゴミを生産している。
これは一体どういうことなのか。

物なんか要らない。
そもそも目的は物ではなく幸福だったはず。
高品質低価格の物体が手に入っても、それを作る中国の労働者が不当に扱われるならば。
それによって増えた私達の幸福と労働者の苦労は相殺される。
トータルがマイナスならば、それは生産ではなく破壊なのだ。

モノづくりは物ではない。
見るべきは別にあるはず。
モノづくりから物を除いたら、作りが残る。
モノづくりは作りだ。

物とは器だ。
作りとは器に価値を込める行為。
見るべきは器ではなく、価値なのだ。

価値とは幸福だ。
幸福は万人が目指しているもの。
ならば、幸福はモノづくりだけにあるわけではない。
「モノづくりに興味が無い」衝撃的なセリフを聞いた。
モノづくりが世界の全てではなかった。

目的は幸福、器は手段。
鉄鉱石から鉄を、鉄から鉄板、鉄板から自動車を作るように。
目的は手段となり得る。
だが逆はできない。器を集めても幸福にはならない。
物体を集めても価値にはならないのだ。

医者になるために医者の勉強が要るように、幸福になるためには幸福の勉強が要る。
幸福の何たるかを理解しろ。
モノづくりが作るべきはゴミの山ではなく幸福なのだ。
便利のために苦労をしてはいけない。
幸福のために努力をしなければならない。

等価交換。
支払わなければ得ることはできない。
縄文時代でも21世紀でも変わらず、飯を食うために労力を払わなければならない。
お金という紙切れ、器に入っているのは信用。
それを目的に働いているが、得たお金は器に過ぎず。
お金の中にある価値を、何に移し替えるか。
何にお金を支払うかは、またも価値を見る能力が必要なのだ。

今日の夕飯はどうするのか。
来月の給料は貰えるのか。
来年の就職はあるのか。
飯を食い、車を買い、家を買い。
結婚して子供を育てる。
当たり前の幸福のために、何千万円かかるのか。
得るためには支払わなければならず。
すなわち、私達は一人一人が何千万円分の価値を生み出さなければならない。
ごく普通に生きるとは、そういうことなのだ。

 

ああなんだ。
21世紀とかモノづくりとか、幸福とか仕事とか、そんな話じゃない。
身の回りにある、ありきたりな日常。
今日の夕飯に、何もかも全部詰まっていたんだ。

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