縄文時代と21世紀、どちらが幸福か。
恐らく同じだ。
幸福だと思う人は幸福と思い、思わない人はグチをこぼす。
いつの世も同じなのだろう。
ならば文明は何のために発展してきたのか。
技術の進歩は何のためだったのか。
それは幸福に通じていないというのか。
それが私の最初の疑問だった。
エアコン、炊飯器、洗濯機、掃除機。
昔は、物が増えれば幸福になったのかもしれないが。
今は違う。
断捨離、捨てる技術、物なんか無いほうがいい。
生まれた時から不景気で、節約とかエコばかり叫ばれて。
いつの間にか欲しいものが無くなり。
要らない物で散らかった部屋にうんざりしている。
物が要らない世界で、モノづくりは何を作ればいいのか。
高品質低価格を突き詰めて、作り手がヒーヒー言っているのに。
その結果、幸福は増えず、ゴミを生産している。
これは一体どういうことなのか。
物なんか要らない。
そもそも目的は物ではなく幸福だったはず。
高品質低価格の物体が手に入っても、それを作る中国の労働者が不当に扱われるならば。
それによって増えた私達の幸福と労働者の苦労は相殺される。
トータルがマイナスならば、それは生産ではなく破壊なのだ。
モノづくりは物ではない。
見るべきは別にあるはず。
モノづくりから物を除いたら、作りが残る。
モノづくりは作りだ。
物とは器だ。
作りとは器に価値を込める行為。
見るべきは器ではなく、価値なのだ。
価値とは幸福だ。
幸福は万人が目指しているもの。
ならば、幸福はモノづくりだけにあるわけではない。
「モノづくりに興味が無い」衝撃的なセリフを聞いた。
モノづくりが世界の全てではなかった。
目的は幸福、器は手段。
鉄鉱石から鉄を、鉄から鉄板、鉄板から自動車を作るように。
目的は手段となり得る。
だが逆はできない。器を集めても幸福にはならない。
物体を集めても価値にはならないのだ。
医者になるために医者の勉強が要るように、幸福になるためには幸福の勉強が要る。
幸福の何たるかを理解しろ。
モノづくりが作るべきはゴミの山ではなく幸福なのだ。
便利のために苦労をしてはいけない。
幸福のために努力をしなければならない。
等価交換。
支払わなければ得ることはできない。
縄文時代でも21世紀でも変わらず、飯を食うために労力を払わなければならない。
お金という紙切れ、器に入っているのは信用。
それを目的に働いているが、得たお金は器に過ぎず。
お金の中にある価値を、何に移し替えるか。
何にお金を支払うかは、またも価値を見る能力が必要なのだ。
今日の夕飯はどうするのか。
来月の給料は貰えるのか。
来年の就職はあるのか。
飯を食い、車を買い、家を買い。
結婚して子供を育てる。
当たり前の幸福のために、何千万円かかるのか。
得るためには支払わなければならず。
すなわち、私達は一人一人が何千万円分の価値を生み出さなければならない。
ごく普通に生きるとは、そういうことなのだ。
ああなんだ。
21世紀とかモノづくりとか、幸福とか仕事とか、そんな話じゃない。
身の回りにある、ありきたりな日常。
今日の夕飯に、何もかも全部詰まっていたんだ。
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