2014年10月26日

幸福の定義

学校に行けない人がいる。
学校に行かなくても出来る仕事しか就けない。
石炭でも掘るのだろうか。

肉体労働は悪いとは言わない。
むしろ、軽く見るなと言いたい。

キレイなオフィスでパソコンをいじるのと、工事現場で穴を掘るのと。
どちらが優れているかなんて、決めることはできない。
優劣も善悪も無い。
では、求めるべき幸福とは何なのか。

縄文時代と21世紀、どちらが幸福かというと、どちらでもないだろう。
では、人の歴史、技術の進歩とは何だったのか。

それは手段であり、選択肢だ。
優劣や善悪は無く、好き嫌いだ。
幸福を感じるのか、満足できるかどうかだ。

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手段1を肉体労働だとしたら、肉体労働自体の優劣は問題ではない。
問題は、肉体労働ができない人間の存在が許されるかどうか。
肉体労働を幸福だと感じない人が、他の選択肢を選べるかどうかだ。

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仮に、手段1~手段100を全て試し、手段1が最も優れているとしよう。
だが、手段1を全員に実践させたところで、人は幸福にはならない。
絶対幸福になれる手段は存在しない。

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では、どうしたら幸福になれるのか。
幸福とはどこにあるのか。

私は前々から、死ぬときに後悔しないか?墓の中を快適にできるか?
この2つが鍵ではないかと思っていた。

幸福は、好き嫌いだ。
その選択肢の広さにある。
そして、幸福を最大化するためには、多くの手段を実践し、それに幸福を感じるかどうかを試さなければならない。

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長く続けることと、早く切り替えること、そこに優劣は無い。
手法1を続けるか、それとも手法2を試すかは自由だ。
その選択肢、自由こそ幸福に違いない。

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技術の進歩、出来なかったものを出来るようにする。
選択肢を増やす。
自由に選べるようにする。それこそ幸福だ。

 

ゆえに「経験」こそ価値なのだろう。

手段1を続けるのも、手段1~100を試すのも、それに満足しさえすれば。
そこに幸福を感じることができるならば。
そうなれる選択肢、選ぶ自由があるのならば。
それが幸福なのだろう。

 

「経験」こそ価値なのだ。
「選択の自由」こそ幸福なのだ。

 

解は出た。
たった二文字だ。

 

「やれ!」

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