2014年11月2日

答えの先

私は今まで、霧散した自身を収束させようとしていた。
見聞きしたもの、教科書や人の意見や世間の声、身の回りの全て。
それは得ているようでいて、実は霧散していたのではないかと思う。

人に従えば人形と言われ、我を通せば自分勝手と言われる。
正しい答えは無く、惑わされてばかりだった。
Aを得ればBを否定され、Bを得ればAを否定される。
自身は自身を否定するばかりで、積み重ねではなく乱されるだけだった。
神だと崇めていたものが、実は違っていたり。
どうしようもないクズが、実は大切だったりする。
世界には己しかなく、己こそ世界だった。
何もかも全てを己に収束させることが、得るということだった。
そして、その解には、ほぼ近い所まで行くことができた。

世界は2つある。
一つは己で、もう一つは己以外。
解を得た私は、世界の片側を見ることができた。
だがそれでは半分だ。
己以外を見なければ、世界の全ては完成しない。

何でも思い通りになる世界が己だとしたら。
己の外側は、思い通りにならない世界。
常に刺激的で、予想外なことがたくさん起きるのだろう。
私は、己以外を見ていなかった。

人のせいにするな。原因を己の外側に作るな。
原因は全て自分にあり、だからこそ改善できる。
人の顔や名前は覚えないし、誰が何をしたとか全く興味が無い。
私の世界は閉じている。閉じることを良しとしている。

世界の半径は5M。
その中の全てを思い通りに動かし、満たされた最高の状態に作り上げたとしよう。
だがそれは、世界の片側でしかない。

 

思い通りにならない世界に興味がある。
端的に言えばそういうことだろう。
2つの世界を混同しないように気をつけなければならない。

誰かが私を殴ったら、原因は私にある。
決して自分の外側に原因を作ってはいけない。
原因も事象も、当然の結果だ。
善人も悪人も、強者も弱者も、等しく異なるものとしてある。
それが、思い通りにならない世界。
答えの先、答えの向こう側である。

生きる能力はあるだろうか。
立って歩く能力はあるだろうか。
始まりの時はすぐそこにある。

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