縄文時代と21世紀、どちらが幸福だろうか。
22世紀に生まれなかった我々が不幸ではないのと同様に。
21世紀に生まれなかった縄文人は不幸ではなかったはずだ。
幸福は変わらない。
では、我々が積み上げてきた歴史とは何だったのか。
今積み上げているのは、明日の幸福に繋がらないというのか。
科学と技術は違う。
科学。
理屈や記録や情報のようなものだ。教科書や公式のようなもの。
技術。
実際の行い。誤差やイレギュラーを含む、理解していなくても手を動かしたこと。
我々は、科学の上に立っている。
縄文時代に比べ、医療や防災は確実に優れている。
衣食住も安定している。
これは積み上げた科学だろう。
その土俵に立っていては、差別化はできない。
誰でも出来ることでは金儲けにならない。
縄文時代なら土器は大切だったかもしれないが。
21世紀では皿は100円ショップで買える。
米や小麦粉は大切だが、21世紀の日本ならスーパーで買うことができる。
そこで技術だ。
技術を科学の上に積む。
他人に出来ないことができるようになる。
それを人に提供することで金を貰う。
技術は経験であり価値だろう。
技術は、悪い意味でも経験だ。
20才なら、20才なりの経験しかない。
それは覆せない。
だからこそ、積み上げるべき価値なのだ。
幸福も同じようなものだろう。
縄文時代と21世紀の幸福が同じなのは、幸福が相対的なものだからだ。
アイスの後のコーラが酸っぱい、冷水の後のぬるま湯は熱い。
幸福は自然に得られるものではなく、能動的に得なければならない。
幸福は始めから存在するが、それに気付く努力は必要だ。
科学が要らないわけではない。
技術と同時に科学も積み上げないといけない。
教科書やWikipediaに情報を記録したり、データを整理して法則を発見したりする。
それは情報だ。
情報は、インターネットで地球の裏側まで届くし、高速でコピーできる。
オープンソースは科学。コピーしても金に変える価値は無い。
そこから得られる経験は技術。コピーできないしネットで伝えられない。
写真を撮ったり文字にしたり映像を配信したりすれば、技術の一部は科学になり、オープンソースが強化される。
技術は経験、価値、幸福、やれ!
科学は歴史、集合知、マニュアル、文明の利器、インターネット。
さて、もう一息だ。
インターネットの上で価値を産むためにはどうしたらいいのか。
つまり、この世界で飯を食うにはどうしたらいいか。
幸福になるためにはどうしたらいいのか。だ。
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